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ミラン・クンデラ『冗談』

年明けすぐのマニラへの出張で読もうと思って持ってバッグに入れていきました。

行きの飛行機で引き込まれ、マカティの若干黴臭いホテルの部屋でサン・ミゲルを飲みながら読みふけり、帰国してすぐ自分の部屋で読了。

最後のページで全てが完成する。作品としてのあまりの美しさに感動して、しばらく言葉が出なかった。僕が今まで読んだ小説の中でも最高のものの一つでした。

あまりに印象に残る箇所が多かったので、抜き書きをしました。しかし、僕の抜き書きを見てしまうことで、それぞれと正しい形で、つまり作品の中で出会うという、人生で一度しかない機会を奪ってしまうという事は、凄まじい罪悪に感じられます。このインスタグラムの下から抜き書きです。見るのは読了後でお願いできればと…。

Kundera in Manila

A photo posted by fujimura (@ffu_) on

p.58

いくつもの顔をもっていたのは私が若かったからで、じぶんが何者で、どういう人間になりたいのかじぶんでもわからないからだった。

p.58

愛というものの心的・身体的な機制は複雑極まるものだから、若い男は人生の一時期、もっぱら自力を集中しなければならない。そのため愛の対象、つまり愛する女性を取り逃がしてしまう(これはちょうど、若いヴァイオリン奏者が演奏中に指使いのことを考えなくてもいいほど達者にならないかぎり、作品の内容に集中できないのと同じことだ)。

p.124

それから彼女は手を上げたのだが、その上げ方と言えば、これまで一度もそんな仕種をしたことがなく、どうやっていいのか分からないのに、ただ別れのしるしに手を振ることだけは知っていて、不器用ながらもそんな動作をしてみようと決心した人のようだった。

p.138

おのれの悲惨を自覚したところで、それで同類達の悲惨との和解が生じるわけではない。めいめいが他人のうちにみずからの卑俗さを見て仲よくするときほど、嫌なことはない。私はそんなべたついた友愛をどう扱っていいのかわからないのだ。

p.216

「王様!あんたには眼は要らないさ!おれが全部話してやる」

p.303

新聞はかさばらず、なんならゴミ箱に捨てることだってできる。同じようにつまらないものでも、ラジオにはそのような情状酌量の余地はない。カフェやレストランにまで私たちを追いかけてくるばかりか、耳に絶え間なく音の栄養をあたえないと、生きている気がしない人々の家を訪問しても変わりないのだ。

p.390

手に持ったカンテラを激しく振りかざしながら海岸をうろつく者がいれば、それは精神が錯乱した人間かもしれない。しかし夜、針路を失った小舟が大波に弄ばれるときなら、その者は救い主になる。

p.474

延期された復讐は奸計に、個人の宗教に、神話に変わり、日に日に当事者自身から離れていく。当事者たちは復讐の神話のなかで不変でも、じっさいには(動く歩道はたえず動いているから)、もはや以前の彼らではなくなっている。